LOGIN「抱かせてって、言ったの。私、言ったのに。兄さんが、駄目だって。あの子は……」 呼吸が乱れた。 医師が一歩近づく。 看護師が酸素の流量を確認した。 私は、手を離すべきか迷った。 葵さんの指が、私の指を引っかけるように握っている。 触れている指の重みだけが、妙にはっきりしていた。葵さんの指が離れないことを、私は手のひらで確かめていた。 離せば安心するのか、置いていかれたと思わせるのか、分からない。「ここにいます」 自分がここにいていいのか、まだ決められないままで。 口から出た声は、ほとんど自分に言い聞かせるようだった。「今は、どこにも連れていかれません」 葵さんが、目を細める。 聞こえたのかどうかは分からない。 乱れていた呼吸が一つだけゆっくりになった。「連れて……」 葵さんは、その言葉だけを拾った。「抱いたら、連れていかれるって。兄さんが。あなたが見ると、離せなくなるって」 背中に冷たいものが走った。「離せなくなる」という言葉だけが、耳に残った。康生さんの声で言われた気がして、胃の奥が冷えた。 私は康生さんの顔を思い出した。 柔らかい声。整った笑み。こちらが怒れば、怒る方がおかしいように見せる目。 その人が二十四年前、このベッドの上の女性から赤ん坊を遠ざけていたのだとしたら。 手が震えた。 でも、葵さんの手を強く握り返すことはしなかった。 私の怒りで、この人の手を痛くしたくなかった。 医師がすぐに手で合図する。「ここまでにしましょう」 私は頷いた。 もっと聞きたかった。 聞いてしまいたかった。 高瀬さんの手元には、録音機ではなく面会記録用のメモだけがあった。医師の許可がないまま、証言の録音や聞き取りは行わないと、最初に決めていた。 今の言葉がどう扱われるかは、あとで高瀬さんに聞けばいい。 私は医師の合図に頷いた。
葵さんが、小さく言った。 看護師が私を見る。医師も、かすかに眉を寄せた。 カーテンの内側は静かで、葵さんの小さな声だけがはっきりと聞こえた。 触れていいのかどうか。患者の混乱を増やさないか。そんな確認が、一瞬で交わされる。 私はすぐには動かなかった。「握っても、いいですか」 葵さんに訊いた。 医師でも、看護師でも、九条家の代理人でもなく、葵さんに。 葵さんは答えなかった。 ただ、シーツの上で指を開いた。 私はゆっくり近づき、ベッドの横へ立った。 手を握るというより、触れた指をそっと受け止める。 軽かった。 驚くほど。 その軽さに、二十四年という時間の重さだけが遅れて押し寄せた。「痛くないですか」 葵さんは小さく首を振った。 その動きが、子どものように頼りなく見えて、胸が痛んだ。 この人は母かもしれない。 でも、その前に、助けを必要としている人だった。「……車」 葵さんが呟いた。 看護師が顔を近づける。「車が、怖かったですか」 葵さんは答えない。 目を閉じ、まつげを震わせる。「暗い、道」 私は葵さんの手元を見た。「揺れて……声が、した」 誰もすぐには口を挟まなかった。 医師も、看護師も、記録を取る高瀬さんも、葵さんの呼吸を見ている。「赤ちゃんの」 葵さんの目元に、涙が滲んだ。「泣く声」 医師がモニターへ目をやり、看護師が葵さんの肩を支え直した。「小さいのに、強くて」 葵さんの指が、私の指を探すように動いた。「私、笑ったの。泣いてるのに、笑って……元気だって思った。生きてるって」 言葉は途切れ途切れだった。 時間の順番も、場所も、曖昧だ。 けれど、そこに嘘の整い方はなかった。 思い出すというより、
その呼び方を、私はすぐには自分へ向けられたものだと思えなかった。 葵さんの声は、とても小さかった。 ワゴンの音は遠く、ここまで届く頃にはかすかな震えに変わっていた。 処置室の機械音に紛れてしまいそうなほど細い声だったのに、私の耳には妙にはっきり届いた。 看護師がすぐに葵さんの肩へ手を添える。「九条さん、分かりますか。ここは病院です。事故に遭われましたが、命に別状はありません」 葵さんは看護師を見ていない。 目は、私の方へ向けられたままだった。 その目に、私は映っているのだろうか。 それとも、二十四年前の病室が映っているのだろうか。 私は一歩も動けなかった。「朝霧さん」 高瀬さんが横から小さく呼ぶ。 医師もこちらを見た。 会話を続けるかどうかを私に委ねているわけではない。患者の反応を見て、必要ならすぐ止める。そのための目だった。 私は一度、息を整えた。「朝霧栞です」 それだけ言った。 母かもしれない人に、何と言えばいいのか分からなかった。 娘です、とは言えない。 あなたの子です、とも言えない。 娘です、と言えば早かった。けれど、その言葉は喉まで来て止まった。「朝霧栞です」 もう一度、同じ名前を言った。今はそれ以上が出なかった。 もしこの人が本当に母なら。 そう考えた瞬間、胸のどこかが先に縋ろうとする。 でも、縋ったら、今度はこの人を縛る。 私は自分の手を握り直した。 葵さんの眉が、寄る。「しお……り」 音を確かめるような呼び方だった。 胸の奥が痛む。 私の名前を、こんなふうに初めて呼ぶ人がいる。 それだけのことなのに、膝の力が抜けそうになった。「無理に話さなくて大丈夫です」 私が言うと、葵さんの目元が小さく揺れた。「無理……」 言葉を繰り返す。 その意味を確
高瀬さんは短く頷いた。「九条康隆氏の代理人が、転院を認めない意向を病院側に伝えています。医師の判断なしに移せません。こちらからも、安全確認と記録保全の文書を提出します」「文書」 高瀬さんは鞄を開きながら答えた。「今、紙で出します。電話だけでは、あとで消えます」 プリンターもない廊下で、どうやってと思った。 私が周囲を見回すより先に、相良さんが駐車場へ戻った。 数分後、相良さんが小型のモバイルプリンターを持って戻った。 白い紙が一枚、機械からゆっくり出てくる。 その薄さが、今は頼もしかった。けれど、紙が出るのを見届けた途端、ひどく情けなくもなった。二十四年ぶりに母かもしれない人と会うのに、私たちがまず頼るのは、この頼りない白い一枚なのだ。 相談室の扉が開いたのは、それから二十分ほど後だった。 高瀬さんと九条側代理人、そして白衣の医師が出てくる。 私は立ち上がった。 立ち上がった拍子に、椅子の脚が床を擦った。「九条葵さんは」 名前を出した瞬間、医師の表情がわずかに硬くなった。 それでも、彼は慎重に言った。「患者さんは意識を取り戻しつつあります。外傷は軽度です。ただ、強い混乱があります。面会は、医療上の判断で短時間のみ。ご本人が拒否された場合は即時中止です」 短時間。 即時中止。 その条件が、むしろありがたかった。 葵さんは、私が会いたいから会わせられる人ではない。「……その条件で、お願いします」 私は答えた。「無理はさせません」 言ってから、自分の声が固いことに気づいた。 医師は、私を一瞬だけ見た。 患者の親族かどうかまだ確定していない女を、どう扱うべきか迷っている顔だった。 九条側代理人が横から言う。「康隆様より、朝霧栞様の短時間面会について同意を得ています。患者ご本人の反応を最優先する条件で」 医師が頷く。 廊下を進む間、足音がやけに大きく聞こえた。 個
少し強い言い方になった。 すぐに後悔したけれど、謝らなかった。 シートベルトの金具が、膝の横で小さく鳴った。 今は、謝るより先に怒っていたかった。 病院に着く頃には、外は暗くなり始めていた。 救急外来の入口には、救急車が一台停まっている。自動ドアの向こうから、消毒液の匂いと、靴音と、短い呼び出しの声が流れてきた。 高瀬さんが受付へ行く。私は少し離れた場所で待った。 ここで名乗っても、私には権限がない。母かもしれない人。そんな言葉は、病院の受付では何の力も持たない。 それが分かっているから、胸が痛かった。 しばらくして、九条家の代理人が到着した。康隆さんの代理だという男性は、こちらへ深く頭を下げたが、私に余計なことは言わなかった。 そのまま高瀬さんと一緒に受付奥の相談室へ入る。 待つ時間は長かった。 壁の時計の針が一つ進むたび、手の内側に汗が滲む。救急外来の椅子は硬く、座っていても背中が落ち着かない。 律は私の隣にいた。 車椅子の位置は、近すぎず、遠すぎなかった。 「飲み物を」 相良さんが小さな紙コップを差し出した。 水だった。 私は受け取ったが、飲めなかった。紙コップの縁が少しへこんでいる。指に力が入りすぎていた。 「朝霧さん」 律が、低く言った。 「葵さんが無事だった場合、会えるかどうかは医師の判断です」 「はい。まずは、無事だと分かれば」 そう答えても、律は私の顔を見ていた。 私は紙コップの水面を見た。 「私が、期待しすぎないように?」 「そうではありません」 答えが早かった。 「会えなかった時、あなたが自分を責めないように」 言い終えた律の声は、いつもほど落ち着いていなかった。私を案じているのか、それとも自分も怖いのか。聞けば分かるのに、聞く勇気がなかった。 水面が、ほんの少し揺れた。 手が震えたのだと、遅れて分かった。 「……そう言われると、怒っていられなくなります」 「すみません」 「謝ることじゃないです。分かっているのに、つい」 言ってから、わずかに口元が緩んだ。 笑ったのではない。笑いそうになっただけだ。 それでも、息は少し戻った。 待っている間に、受付の奥が一度だけ慌ただしくなった。 高瀬さんが相談室から出てきて、
地図の赤い印が頭から離れず、胸の内側の震えがはっきりと伝わってくる。まだ行き先さえ分からないまま、知らせを待つしかなかった。 書斎の窓を雨粒が伝っていた。外の明かりがその向こうに滲み、連絡を待つ間も、雨の音は途切れなかった。 相良さんが手配した確認車両を出してまもなく、康隆さんの代理人から折り返しがあった。 高瀬さんは通話をスピーカーにはしなかった。ただ、必要な部分だけをこちらへ伝える。「康隆氏は、九条葵さんの安全確認について正式に同意しました。病院、警察、消防に対して、九条家側の代理人が入ります」「康生さんじゃなく?」「康隆氏本人の委任状です」 その言葉で、私は初めて康隆さんが九条家の中でまだ何かを動かせる人なのだと実感した。 年老いていても、震えていても、あの人は完全には黙らされていない。 同時に、康生さんがそれを嫌がる理由も分かった。 葵さんが生きている。 葵さんが話すかもしれない。 そして、康隆さんが今度こそ聞こうとしている。 康生さんにとって、それは二十四年前の事故よりも厄介なことなのだろう。 十五分後、最初の事故情報が入った。 事故多発地点の手前で、医療搬送車がガードレールに接触。 後続車の運転手が通報。 搬送されていた女性患者一名と、運転手、付き添いの男性職員が救急搬送。 重篤な外傷は現時点で確認されていないが、患者は意識混濁。 それを聞いた瞬間、足元の力が抜けそうになった。「軽傷、なんですか」「重篤じゃない、という第一報です」 高瀬さんは言い換えなかった。「詳細は、搬送先の病院で確認します。ただし、朝霧さん単独では情報開示を受けられません。九条康隆氏の代理人が病院へ向かっています」「康隆さんは」「病院へ行くとおっしゃっていますが、ご高齢です。代理人が先に入ります」 私は頷いた。 頷いたつもりだった。首が動いたかどうかは分からない。 車に乗ると、窓の外はもう夕方だった。 空の端に薄い雲が伸びている。道路
司は廊下の壁際に立ち、こちらを見ていた。 三年前より少し痩せたように見える。 けれど、きちんと整えられた髪も、上質なスーツも、昔と同じだった。 何も変わっていない。 そう思ったのに、胸の奥だけが一瞬、昔の痛みを覚えてしまった。 「栞……」 呼ばれた名が、廊下に落ちる。 私は足を止めなかった。 「話があるんだ」 司が一歩踏み出す。 その指先が、私の袖をかすめた。 反射的に振り払った。乾いた音が、静かな廊下に響く。 「今、あなたと話すことはありません。私は如月家の人間でも、あなたの婚約者でもありません」 司の顔がこわばった。 「栞、俺は……」 「
病院の個室には、消毒液の匂いと、心電図の小さな音が満ちていた。 ベッドの上の静江さんは、記憶の中の人よりずっと小さくなっていた。 頬は痩せ、手の甲には細い血管が浮いている。酸素マスクの下で、唇だけがかすかに動いた。 「静江さん」 名前を呼ぶと、まぶたが震えた。 ゆっくり開いた目が、私を捉える。 濁りかけた瞳の奥に、ほんの少しだけ昔の光が戻った。 骨ばった手が、シーツの上を探るように動く。点滴のチューブが、白い布団の上でかすかに揺れた。 私は慌てて、その手を両手で包み込んだ。 驚くほど冷たい。 それなのに、弱い指先が私の手を握り返した。 「し……お……り
午前二時過ぎ。 私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。 「栞、少し付き合え」 自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。 夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。 如月隆一。 如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。 三年前、私を家から追い出した男だ。 私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。 「……何の御用ですか」 「話がある」 「申し訳ありません。雑誌と公共料金のお支払いでし
「律様、お時間です」 低い声が、扉の外から響いた。 広い執務室の奥で、榊律は窓の外に背を向けて座っていた。 机の上には、如月家に関する調査資料が並んでいる。 その一番上に、朝霧栞の写真があった。 コンビニの制服姿で、視線を逸らすように横を向いている。ひどく疲れた顔をしているのに、背筋だけは真っ直ぐだった。 律は写真の端に指を置いた。 三年前の豪雨の夜。 高架下で膝を抱えていた少女の横顔を、彼は覚えている。 名前を名乗ることも、声をかけることもできなかった。 ただ傘を差し出した。 そのあと彼女がどこへ消えたのかを、ずっと探していた。 「やっと、見つけ